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2011年8月

2011年8月30日 (火)

南相馬災害ボランティア3rd【6日目】仮設住宅へ支援物資を配ってきました。

 今日は支援物資の配布という作業を行った。先月とほぼ同じ内容で、午前中は日用品、タオル、石鹸、マスク、ティッシュペーパー、シャンプー、洗剤、洗浄用アルコール等を袋に詰めて、午後からは取りに来た方にお渡しする。前回は対象世帯が700軒以上だったが、今回は70軒程度までになっているため来場する人は少ない。その代わり、それを仮設住宅までお届けする作業も加わったのでそちらに行った。

 我々の行った仮設住宅は約200世帯分が設置されている。平日の昼間ということもあって、在宅している確率は少なく、そういう場合は不在票を入れてくる。3人一組になって順番に各家庭に持っていく。今日は総勢6命。どんなものを配るかというと、午前中袋詰めした日用品、2Lの水二本、団扇、虫除けスプレーである。

 仮設住宅の玄関先で渡すので、中の様子は良く分からないが、6畳2部屋、台所、バス、トイレといったところだろうか。一覧表にあるお名前と人数を確認し、手渡ししていく。「こんなに頂いちゃって良いんですか?」「重い荷物を・・・ご苦労様です」。最初は元気なさそうな方々も物資を渡すと、笑顔でこう返してくれる。だけど「頑張って下さいね」という言葉は胸に詰まって出ない。「よろしくお願いします」が精一杯だ。

 とある一棟では、ペットの犬を飼っているお宅もある。ペットも家族だから当然だが、悪い言葉で言えば昔の長屋と同じような造りなので、ご近所同士の理解が必要で、同じ一角に住むようになっているのだろう。本当はもっと話を聞いてあげるべきなのかもしれないが、配布作業メインなので、簡単に説明したら移動せざるを得ないのは残念だ。でも、こういう生活の一端を直接知ることができたのは、意味のあることだった。何とか50軒に配り終わり、支援物資配布拠点にもどった。

 ここで働くボランティア以外の方々とは先月も同じ作業をしたので、かなり親しくなれた。ただ、次回はいつ来れるという確証はなく、今日で最後なのかもしれない。そう考えると、少し寂しい気になるが、いつか正常な生活に戻った時には絶対に来ようと思うようになった。南相馬は、それくらい愛着のある土地になった。原発事故が完全収束し、早く復興して欲しいと切に願う。

2011年8月29日 (月)

南相馬災害ボランティア3rd【5日目】常連ボランティアの素敵な面々

 南相馬市原町区でのボランティアも5月、7月、8月と述べ10日参加していると、常連のメンバーの存在に気づく。その筆頭がSさん。恐らく60代と思われるが、どこから見ても親方という感じで頼もしい。ボラセンの人達も一目置く人物のようで、瓦礫撤去、家財出し、泥出し作業の場合は、必ずリーダーになる。本業は何かということを聞いたことはないが、その関係の阿多なのだろう。寡黙だが話すと面白いし、日焼けした笑顔がとてもカッコイイ。

 もう一人は、ボランティア無料宿泊所を取り仕切っているMさん。この方もある意味ボランティアで使命感が強い。かれこれ4か月、他のボランティアとともに中学校の体育館で寝泊りしているとのこと。とにかく被災者やボランティア側の立場に立ち、ニーズの発掘やボランティア待遇改善の為に、社協との調整に当たっている。ただ猪突猛進という言葉がピッタリ当てはまるような方で、我々と話の合わないことも多々あるものの、あの純粋さは真似できないと評価している。

 3人目はTさん。土曜日の復興イベントでも仕切っていた。当初は社協の方かと思っていたが、地元のボランティアの方のようだ。彼とは先月、支援物資を借り上げ住宅の人達に配布する際に一緒になった。気さくな方で、一昨日も「ボラセンの仕事を終わってからも有志の方は是非手伝って欲しい」と深く頭を下げられ、その熱意に共感して最後までいた。地元の復興を真に願っているようだ。明日は、また支援物資の配布の手伝いに行くつもりだ。

 この他にも、東京から自転車で来ていたMさん、鹿児島から軽自動車で4日間も掛けて来て、中学校で1ヵ月以上生活していたご夫婦、いろいろな方々の顔が浮かぶ。そういう人達と話すと、とにかく被災者の立場に立って、何か少しでも役に立ちたいという純粋な気持ちで動いていることは明白だ。おそらく今回の震災以降、東北の各地にはこうした意志をもった面々が数多くボランティアとして活動しているのだろう。無名でも多くの人々が支えていることを分かって欲しい。

2011年8月28日 (日)

南相馬災害ボランティア3rd【4日目】石巻に行ってきました。

 今日は石巻で別のボランティア活動をやっている方の迎えに行った。日曜日なので空いていると思い、有料道路を使わなかった。南相馬から2時間、塩釜港に着く。マリンゲートというところでトイレ休憩。5か月前、ここにも津波が来たというが、周辺を見渡してもその印象が薄れるくらい回復し、遊覧船も出航していた。

 次に通ったところは日本三景の一つ松島。ここはほとんど津波の爪痕を感じなかった。そのためか、かなり多くの観光客がみえていた。良い傾向である。車から見ても、素晴らしい景色で、復興のあかつきにはのんびり来てみたいところだ。

 そして石巻。国道45号を走っている分にはそう大きな津波被害は見受けられなかったが、海沿いの道を走れば、そこは見るも無残な状態だった。しかも、地盤沈下しているせいで、6か月近く経った今でも信号が使えず、警官が手信号で交通整理をしている。これはかなり衝撃的だった。まだ迎えの時間には4時間もあったので、少々遠回りして女川まで行くことにした。

 峠らしきものを越えて女川に入った。そこは爆心地かのように、目に見える範囲すべて壊滅状態だ。5月から南相馬に来ているけれど、3階程度の建物が何か所か横転しているのを見たのは初めてだし、その荒涼たる光景に唖然とするばかりだった。「どういう風に復興したら良いんだろう」自分なりにも答えが出なかった。

 そして、また石巻に戻ってきて、ボランティアの基地となっている石巻専修大学に足を運んだ。ここのボランティアセンターは南三陸町から石巻をカバーしているため、範囲が広く、社協以外にも、いつくかの団体が入り活動していた。

 今回、南相馬以外の被災地を廻ってみて思ったことは、復興までには相当の時間が必要になるだろうということだ。でも、どんな苦難にも前向きに生きようとしている地元の人々を見るにつけ、自分に勇気を貰えているような気がしてならない。明日からの後半戦、頑張ろう!

 

2011年8月27日 (土)

南相馬災害ボランティア3rd【3日目】「ひまわりに誓う明日への集い」に参加しました

 今日は地元の復興イベントとのお手伝いをしました。ボランティアセンターの仕事としては、時間的に設営だけで早く終わてしまったため、センターの仕事としてではなく個人の意志でイベントの最後まで駐車場への誘導や撤収のお手伝いをしました。

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  このイベント会場の周りには、復興ひまわり大作戦として7haひまわりを植えてありました。残念ながら、若干時期がずれてしまい、花が下を向いてしまいましたが、壮観な眺めです。Dsc_0272

 

 このひまわりは、自由に持って行って良いそうですが、理由が悲しいですね。

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 南相馬市には5月から述べ2週間ぐらい滞在していますが、こんなに大勢の人を見たのは、野馬追い以来です。しかも、今回はお子さんも多く、酒類以外は全て無料でうどん、手打ちそば、ゆでとうもろこし、やきそば、やきとり、イカ焼き、かき氷などが振る舞われて活気がありました。

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 最後には、夜空に花火が上がり、会場では鎮魂とともに、明日からも「頑張ろう」という雰囲気に包まれました。また、今まで以上に、南相馬市の方々ともいろいろなお話が出来ました。津波被害を受けてない地域にいると、ここが被災地だということが分からないです。一番問題なのは原発事故。本当に恨めしい限りです。



















2011年8月26日 (金)

南相馬災害ボランティア3rd【2日目】久しぶりの泥だし作業

 朝起きると、若干雨が降っていた。これでは外作業がないんじゃないかと思いつつ、原町区ボランティアセンターへ向かう。知った顔が数名いる。雨も気にならない程度になり、個人宅床下の泥だし作業を行うことになった。(この案件には11名が参加した。)

 津波被害に遭った家に対して、ボランティアはどんな作業を行うのか分からない人も多いと思う。どんな流れかというと、まずは家財出し作業。家の中に散乱している家具や畳、電気製品、布団、洋服などを全て撤去する。その際に家の周りに散乱している瓦礫を撤去することもあるし、家財出しの前にやる場合もある。

 次は床下の泥出しだ。骨組みだけになった床下にヘドロが10~15cm溜まっているのでこれを掻き出すのだ。ドロドロの状態ではなく、水分を含みながらもある程度は固まっている状態だが、粘り気が多く、スコップで掬うのには難儀するケースが多い。それをバケツや土嚢袋、一輪車に入れて所定の場所に捨てるのである。

 このような家財出し、床下の泥だし、瓦礫の撤去などの仕事はボランティアの専売特許とでも言うべきか、まず水害関係のボランティア活動といって想像するのがこの作業だろう。

 今日のお宅は周囲を田んぼに囲まれた大きな家だ。私の家なら4つは建つだろう。すでに家財は持ち出されていて、床下の泥出しをするだけになっている。震災から5か月半も経って、まだこんな状態の家があること自体驚きだったが、どうも長い間、遠くへ避難されていたらしい。

 以前入ったお宅では、畳を支える根太を全て切って、身体のはいるスペースを十分確保した上で泥出しを行ったが、今回は根太がある状態なので、そこに入るとなかなか身動きができない。だから普通のスコップも使えない箇所が多く、片手に持つことが出来る程度の少し大きめのシャベルでバケツに入れ、それを一輪車に移し替えて運ぶ作業となった。

 広い部分はそれなりに作業が進んだが、廊下の下などは上から掻き出せない。基礎の間から這って入って掻き出し、バケツリレーを行ったので、かなりの時間がかかった。私は太っているので、狭い所に入ってしまうと身動きができなくなるから、ヘドロの入ったバケツを取り上げて、一輪車で運ぶ担当となった。それでも、一輪車に一杯載せたヘドロを足場の悪い中、所定の場所に何十回も往復するのは大変で、もう汗だくの状態だった。

 基本的に南相馬のボランティアセンターは、作業が途中でも4時までにはセンターに戻ってくる約束になっている。あと2~3時間あれば終わったのだが、残念ながらタイムアップとなった。ほとんどが見知らぬ者どおしなのに、チームワーク良く作業できたことは素晴らしかった。終わった後の顔や体は泥と汗でグチャグチャだが、充実感でいっぱいに見える。やっぱり、皆、何とかしてあげようという強い気持ちがそうさせているのだろう。良い体験ができた。

2011年8月25日 (木)

南相馬災害ボランティア3rd【1日目】3度目ともなると、他所に来た感じがしない。

 南相馬に来るのも3回目になると、普段自分が生活している所とほとんど違和感がない慣れ親しんだ土地のように思える。お昼過ぎに着き、市役所近くのレトロな雰囲気のまるもと食堂で昼食を戴く。そこのおばさんは気さくな感じでいろいろ話しかけてくる。震災時、お店自体は何でもなかったけれど、原発事故の影響で山形に避難し5月末に再開したとのことである。ボランティアセンターにも近く、多くの人が訪れているようで安心した。

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 次に向かったのは、5月の時ボランティアに伺ったお宅だ。その時のメンバーがちょっとした忘れ物をしてしまい、その確認するために行ったのだった。3か月も経つと、瓦礫の山などは片付けられ、今後、ここに住み続けることを決めたようである。まだ、苦難は続くけれど頑張って欲しいと願うのだった。これは、そのお宅の周辺の写真である。3か月前は左右にあった大きな瓦礫の山も全て取り除かれている。(許可を取っています)

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 それから宿舎に向かうまでには時間があったので、前回まで見ることができなかった被災地域も見てきた。発災から5か月も経つのに、津波の爪痕が相変わらず残っていることに驚愕した。

 下の写真は、原町区にある海水浴場から見た東北電力原町火力発電所の様子である。大きなクレーンが真ん中あたりから折れ曲がっているのが分かる。そして、この写真では見づらいが、建物の3階部分ぐらいまでのガラスは全て割れている。ここまで津波が押し寄せた証しである。

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 その後、前回お世話になったボランティアセンターに挨拶にいったところ、思いがけず先月末、同じ作業を2日間行ったボランティアの方に出会った。彼は東京から自転車で来ていて、8月中旬には帰ると言っていたが、まだ活動を続けていたのだ。彼の献身的な努力に敬服するとともに、僅か3週間離れていただけだけれど懐かしさがこみ上げてきた。その間のいろいろなお話を聞けたことは有意義だった。

 我々の活動は明日から始まる。どういう仕事にせよ、出来るだけのことは尽くしたい。

(ブログでは1日1回が限界ですが、ツイッターでは随時ツイートしています。アカウントは@masafumi0428です。)

 
 





2011年8月24日 (水)

【南相馬災害ボランティア3rd】出発前夜、南相馬にこだわる理由。

 いよいよ明朝、南相馬市に向けて出発する。これで3度目になる。他の被災地もあるのに、なぜ南相馬にこだわるのか?ということをよく言われる。これには3つの理由がある。1つは経済的な面だ。交通費等はFROMあしがらからの支援で賄えるし、宿泊先は相馬ポニー牧場が無料開放してくれることが大きい。

 2つめは、南相馬という土地に愛着が湧いてしまったことだ。5月に行った時は、あちこちの田んぼに瓦礫の山が積み上がり、津波の跡もまざまざと残っていた。それが7月には、ほぼ片付いていて、少しずつではあるけれど復興の兆しが見えてきたのかなぁと実感した。また、現地の方々ともお話が出来て、御苦労や様々な事情も分かるようになったから、何とかしてあげたいと思う気持ちがより一層強くなったのかもしれない。

 3つめは、せめてもの罪滅ぼし。この震災で原発事故が起こったために、家が大丈夫なのにもかかわらず、非難を余儀なくされている方も多数いる。また、緊急時避難準備区域でも、放射線から子供を守るために、家族がバラバラになってしまった人達も多い。国や東電の責任は当然だけれど、あの原発で作られた電気を使っているのは関東圏の私達なのだから、全く責任がないとも言い切れない。だから些細なことでもいいから、この地で何かお手伝いしなければいけないのではないかと考えるようになったのだ。

 先月も書いたが、ボランティアなんて自己満足の世界だし偽善者と言われても仕方ない。でも、そういう人には「何もしないより、やる偽善でも良いじゃないか」と反論できるようになった。今回は前回から1ヵ月も経っていないのであまり変化は感じないと思うけど、精一杯頑張ってこよう。

 「活動の様子はツイッター(@masafumi0428)でも発信します。」

2011年8月23日 (火)

武田邦彦先生の話を聞いてきました。

今日、ジャーナリスト岩上安身さん主催のイベント「メモリアルウィーク in 小田原(8/20~8/26)」で行われた、武田邦彦中部大学教授との対談を聞いてきた。(http://event.iwj-beta.com/odawara/#momdad

 岩上安身さんは昨年からUSTREAMを使ったインターネット生放送で、既存メディアではできない無編集の記者会見や対談などを配信してくれていたので大変興味があった。そこで、その活動を僅かながらも支援すべくサポーター登録(無料)もさせて頂いた。

 そして311震災後、福島原発の事故があり、東電や保安院の会見に24時間体制で張り付き、情報提供してくれたことにはとても感謝した。だから近場でイベントがあったら協力しようと思っていたのだった。そんな折、開催日の5日前ぐらいになってボランティアの募集があったので応募し、19日と20日は設営のお手伝いをした。

  だけど今日は純粋に武田先生の話を聞いてみたかったので一般客として参加した。先生は今まで我々が常識としてもっていた概念を否定する変な学者だと批判されることが多い。”リサイクルは駄目だ”とか”地球温暖化なんか嘘だ”とか”自然エネルギーなんてとんでもない”ということを平気で言う。原発事故に関しても、当初から政府を批判していたからデマ学者とも揶揄された。

 しかし、5か月以上が過ぎて政府の言ってきたことが、間違っていたことは明白になってきて信用できない事態に陥った。結局、先生の言っていたことは、あながち間違いでなかったというこどだ。

 基本的にはツイッターでの呼びかけでしかなかったのに、かなりリツイートされて、会場である片浦中学校(今は廃校)の音楽室は満員だった。しかも、小さな子供連れのお母さん、お父さんが多い。やはり、放射能に対する意識の強さは人一倍なんだなぁと感じた。お話自体は、岩上チャンネルを観ていれば分かるような話が多かったので、特に新鮮な感じはしなかったけれど、とにかく先生のお話は面白いし元気が出るから不思議だ。

 もちろん、先生の話を信じるか信じないかは、聞いている本人が判断するしかない。岩上さんもそれを強調していた。でも原発が4機も壊れるなんていう前代未聞の事態なのだから、最悪の事態を考えて行動しないと駄目なのだということは間違いないようだ。そして、今の大手メディアも電力会社からスポンサー料が入っているのだから、まずは疑うことから始めよう。今回の震災を機にパラダイムシフトが起こりつつあるのかもしれないと感じた。

 

 

2011年8月21日 (日)

第31回 富士吉田火祭りロードレース10㎞の部に出場しました。

 朝、目が醒めると雨だった。しかも8月にしては寒い。ひょっとすると、大雨の山中湖ロードレースの二の舞かなという危惧がよぎったけれど、天気予報によれば、降っても小降りということで少し安心した。

 この大会に出るのは5回目で最初に出たのは6年前で10㎞の部。8月に関東圏で行われるレースは少ない。怠け者の自分としては定期的にレースに出ないと普段走らなくなっちゃうんじゃないかという恐れがあったので目についた大会だったのだ。当時は参加者も3000人ぐらいで、駐車場は先着順で好きなところに止めることができたけれど、今や参加者は6000人、駐車場もあらかじめ指定されていて、下手をするとだいぶ遠くに止めることになる。今回は比較的近くに止めることができたのでラッキーだった。

 例年なら、富士吉田で標高約1,000mの所とはいえ、気温は30℃になる。そして、このコースはアップダウンが激しい。そんなところから、別名「血祭りロードレース」などと揶揄される(笑)。ただ、今日は寒かった。気温も20℃に届いていないし霧雨交じりだ。その分、走りやすいけれど、当然、富士山何か見えやしない。

 ハーフの部がスタートしてから20分後、10㎞の部がスタートする。私はまだ脚が完治していないため、迷惑をかけないように後方に並ぶ。そして、何だかあっさりとスタート、と同時に花火が打ち上がる。トラックを一周して外周コースを回り、ロードへ。そこから4㎞は延々と上り坂だ、しかも、途中からは登山道。(3年前の大雨の時はこの部分は沢のようになっていた。)さすがにコースはよく分かっているから無理しない。ゆっくり上ったせいもあるけれど、案外早く登山道区間が終わったように感じた。

 ここを終えてしまえば、すぐ下り一方という訳にはいかず、やはり上りもあるし、長い下り坂もある。3月に右ふくらはぎを痛めて以降、レースに出ると、いつ”ピリッと”くるかなと思って、おっかなびっくり走っていたけれど、レース後半はその不安があまり出なかった。1時間ちょっとかかってのゴールだったけど、脚の状態が良くなりつつあることが確認できて良かった。

 すぐさま車に戻って着替え、ランナーサービスの「吉田うどん」を戴く。今日みたいな寒い日にはピッタリだ。少し多めに七味をかけてしまったので少しむせたけど、美味しかった。来年こそはちゃんと脚を治して、ハーフに出場したいな。そして、今日サポートしてくれたスタッフやボランティアの皆さんに感謝します。<次回のレースは山梨市巨峰の丘マラソン10㎞の部>

2011年8月18日 (木)

酔ったせいか、たまには自分を褒めてみた(笑)

 「お客さんに、簡単に『出来ません。』って断るな~!そんなの誰でもできるじゃないか~!」、「他人と違うことをやるから評価されるんじゃないのか~!」。今から25年前、会社に入社して営業職を始めた時、よく叱責されたものだった。

 当時、卸売のルート営業をしていて、正直言ってお客さんからは無理難題ばかり聞かされた。メチャクチャな価格交渉や短すぎる納期に翻弄されたことだろう。だから、お客さんを説得するのにかなり骨を折ったし、相手にしてもらえなくなったこともあった。数えきれないくらい上司に弱音を吐いた。そんな時、冒頭のことを言われていたのだが、そのうち私の性格を見抜いた上司は、「真剣に考えすぎ、ゲームだと思えば、楽だろう?」。」そう言われて、かなり救われたものだった。

 そういった積み重ねで成長していったことも事実だし、無理を重ねて心が疲弊し、会社を辞めざる負えなくなったことも事実だ。

 私の性格から来るのかどうか分からないけれど、子供の頃から争いの仲介したり、根回しをしたり、人の間に立って苦労することが多かった。板挟みというやつだ。自分だけが突出してそういう風になっているのかどうかは分からないけれど、最近はそういうことを解決してやろうと思えるようになったことが不思議だ。

 特に極意はないけれど、当事者間の最大公約数を見つけて、それを本音で語っていくことを心掛けている。当然、上手く行く時もあれば、失敗することもある。だけど失敗した時、自分が精一杯やっても駄目なら仕方ないと、心から思えるようになったことは成長の証しかもしれない。

 

 

2011年8月16日 (火)

サイマルラジオを応援したい!

 昨年、民放ラジオのサイマル放送radikoが始まってから、私のように部屋の中ではラジオ放送が聴けなかった人でもインターネットを通じて聴けるようになった。雑音はないし、音楽もステレオなので非常に重宝している。難点をあげるとすれば、地域によって放送局が限定されていることぐらいか。

 世界中に発信可能なインターネットなのに地域限定というのはおかしな話だ。でも全てを自由にしてしまうと過当競争が激しくなり潰れてしまう局も出かねない。ラジオは災害時最も頼りになるメディアだから、多少なりとも規制があるのはやむを得ないのかもしれない。

 そんなジレンマと取り除くごとく、ポッドキャストで後から聴けるようにしたり、ユーストリームで放送中の番組をスタジオ映像と共に生配信する取り組みも行われている。また、電子メールはもとより、ツイッターやフェイスブックも積極的に取り入れリスナーとの距離を着実に近づけている。かつて、ライブドア社長の堀江氏がネットとラジオの融合という発言をしたが、今まさに、それが実現しているように感じる。

 また地域限定を取り払って期待できるのが小さなコミュニティFMを全国各地にネット配信している「サイマルラジオ」だ(http://www.simulradio.jp/)。東日本大震災以降、地域の災害放送局が次々と誕生しているものの、出力が小さすぎてその地域でしか聴くことができない。でも今回の震災では、遠方に避難した人達も多く、地元の「今」を知りたいと思っている人は多いはずだ。「サイマルラジオ」はそれを可能にしている。

 私が来週またボランティアに行く南相馬市では、約40か所で測定した前日の放射線環境モニタリング数値を発表している。このことは遠方に避難している人が戻るかどうかを客観的に判断する材料の一つになるかもしれないから、非常に有意義な放送だと思う。こうした地道な取り組みを皆で応援しませんか?

 

2011年8月15日 (月)

66回目の終戦記念日に思うこと

 今日8月15日は終戦の日。先の大戦では310万人もの人が亡くなった。戦争を知らない人も全人口の4分の3になったという。あの過ちだけは繰り返してはならない。日本人なら誰でもそう思うはずだ。そしてこの日は心穏やかに過ごしたい。しかし毎年のように政治家の靖国参拝が取り上げられそんな気分にさせてくれない。韓国や中国が批判するのは仕方ない。だけど、この国のマスコミが「誰が行った、誰が行かなかった」という報道を繰り返すのはどうなのだろう。

 この日に靖国参拝したら戦争礼賛=他国を侵略した反省がない?、行かなかったら戦没者への哀悼が足りない?、もうこんな話がずっと続いているような気がする。少なくとも日本は信教の自由が認められているのだから、政治家であろうとなかろうと判断は自由なのではないだろうか。こういう風に対立軸を作っても何の結論も出ないのは明白ではないか。

また、今年の終戦の日は先の震災と相まって、復興するにはどうしたらいいかということも考えさせられる。日本はあの焼け野原から立ち直ったから今度も大丈夫だろうという人もいる。でも、それは先達が一生懸命努力したお蔭であって、戦争を知らずにぬくぬくと育ってきた私達の世代が同じように取り組めるのかは分からない。

 特に地震や津波だけではなく、原発事故にまで見舞われている福島県の浜通り地域はどういう復興ビジョンを描くのだろう。人が安心して住めるようになるまで何年かかるか分からない地域もあるのだ。それでもそこに暮らすことを目指すのか、それとも別の土地に移住するのか、非常に難しい問題だ。これは住人に判断してもらうしかないが、いずれにせよ、原発から送られてくる電気を使っていた関東圏の人達は支える義務があると思う。

 今日は靖国報道と震災の復興について考えた。全く関係ないようだけど、こじつけてみれば、「一朝一夕には解決しない問題なのに白黒はっきりさせることは難しい」ということになるのだろうか。う~ん、何とも締まらないまとめになってしまった。(笑)

 

 

 

 

 

 

2011年8月13日 (土)

8/12、NHK「追跡!AtoZ、福島第一原発 作業員に何が?」を観て思ったこと。21世紀の日本でこんなことが行われていて良いのか。

 昨夜、NHK「追跡!AtoZ、福島第一原発 作業員に何が?」という番組を観て、かなりショックを受けた。今でも143人の所在が分からないという。「労働管理が杜撰でした」で済まされる問題だろうか。そして、作業の実態や作業者をあっせんする暴力団の存在までが明らかになった。もっとも、こうした原発労働者の実態は堀江邦夫氏が「原発ジプシー」という本の中で30年以上前に指摘されていたのだが、それが21世紀になった今でも続いているということになる。

 事故から5か月経つけれど、実際に作業に当たっている方々からのコメントはほとんどない。あるのは大本営発表よろしく統合会見や東電、保安院会見での発表のみだ。作業の実態はよく分からない。昨日の放送では、「使い捨て」という言葉が耳に残った。スキルのある人間は温存しておいて、そうでない人間は率先して線量の高いところで作業を行う。そして、限界を超えたらお役御免だ。所在が分からなくなれば、なにかあった時に保障しなくて済むから、その方が都合が良いらしい。

 私は福島第一原発の事故が起こってから、1986年のチェルノブイリ原発事故について、いろいろ調べた。そして、あの大事故を収束させるのに石棺というものが作られたが、述べ80万人とも言われる人達が動員されたということを知った。リクビダートル(後始末をする人)と呼ばれた人達だ。旧ソ連政府は英雄と称え、連邦崩壊まで生活保障をしていたらしいが、追跡調査の結果、何年か後、多くの人達が命を失ったり体調を崩したという。

 今の福島第一で働く末端の作業員達と比べてどうだろう。酷暑で高線量の中の作業、箝口令まで敷かれ言論の自由さえ制限されているような状況だ。今までも死者が出たり、病人が出たけれど、どこの誰だかも分からない。賃金だって、中抜きされてどれだけ手に入っているか分からない。旧ソ連政府より人命を粗末にしていると思える。日本は人権的には先進国だと思っていただけに、それが裏切られたことはとても残念だ。

 

 

2011年8月12日 (金)

「星一徹」に学んだこと

 私が小学生の頃に影響を受けたアニメの一つは「巨人の星」だった。たまたま昨年秋から今年初めにかけてTV神奈川で再放送をやっていて、いい歳なのに熱中し、時には涙が出るくらい感動してしまった。

 大人になった自分にとっては飛雄馬の父、一徹の言動に興味があり、特に2つのエピソードが心に強く残っている。1つは飛雄馬の高校時代、弱小野球部のコーチに就任し甲子園に行けるまでにするところ。天野監督は優柔不断でやる気なし、チームワークもバラバラだった。しかし、星コーチは自らが悪者になることでチームワークを築かせただけでなく、天野監督にも自信をつけさせ、甲子園の切符を手に入れることができた。

 このエピソードでは、チームワークというのは綺麗ごとだけでは、なかなか出来上がらないということと、指導する人間の器の広さを教えてくれたような気がする。でもこれを実社会で実践することはかなり難しい。誰だって嫌われ者にはなりたくないのだから・・・。

 もう1つは、大リーグボール2号開発中に川上監督から1号でも僅かながら通用する策を聞いても、それを断った理由だ。飛雄馬が小学生の時ロードワークをする3本の道があった。たまたまいつもの道が工事中だったので、一番短い道を通ったら、そこには一徹が鬼の形相で立っていて、「なぜ遠回りを選ばなかった、・・・迷わず困難な道を選べ!」と。

 これも効率が求められる時代には難しいことだ。だけど、自分の実力向上のためには、こういう意識も必要なのだろう。私はもう若くもないけれど、この意識は忘れないようにしよう。

 星一徹というとスパルタ教育で暴力も厭わない強烈なイメージがあって敬遠されがちだけど、なかなか博学だし、個人的には学ぶところが多い。この作品を生み出した故梶原一騎氏にも感謝したい。

 

 

2011年8月11日 (木)

これは酷い「被災地ボランティアのつもりが 『27時間テレビ』設営作業」

「被災地ボランティアのつもりが『27時間テレビ設営作業」の怪(週刊朝日)http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20110811-01/1.htm

 テレビ、新聞ではほとんど取り上げないけれど、最近、フジテレビはネット住人から総バッシングを受けている。私自身は先日も書いた通り、今ではほとんどテレビを観なくなったので、やれ「韓流押しが酷い」とか「ドラマの主人公がLittleboyとプリントされたTシャツを着ていた」というのは、酷いなぁとは思っていたが、あまりピンと来ていなかった。

 しかし、週刊朝日が書いたこの記事は、自分が微力ではあるけれど災害ボランティアに参加したことのある身だけに憤りを隠せない。言い方は悪いかもしれないけれど、普通だったらアルバイトを雇って設営作業をやるべきなのに、町の復興イベントと兼ねているからボランティアを使って作業費を浮かしたあげく、自分達はのうのうとテレビ番組として放送したということになるんじゃないか。

 確かに私の行った南相馬市でも、「お祭りの手伝い」という作業はあった。たいていは小さな自治会のお祭りだ。でも地元の方がメインで作業していて、基本的にはその補助的な役割だったように記憶している。そういうことなら私も進んでやりたいと思った。

 でも、この件はツアー会社の仲介があり、ボランティアは仙台から南三陸町までの往復交通費3,500円を負担している。ボランティアセンターも悪いけど、依頼したフジテレビはもっと悪い。フジテレビがスポンサー料を受け取っていなくて、復興支援のためのボランティア企画だというなら容認する。だけど自分達は利益を上げておきながら、その準備にボランティアを使うなんて呆れ返ってものも言えない。それを反省もせず、さも当たり前のようなコメントを出すなんて、どういう了見だろうか。

 今日で震災からちょうど5か月が過ぎた。まだ復興にはほど遠い。ボランティアもいろいろな形で必要になってくるだろう。彼らの純粋な気持ちを踏みにじらないで貰いたい。

 

2011年8月10日 (水)

「緊急時避難準備区域」が解除されるらしいけど…。

 昨日、政府が福島第一原発から20~30㎞の地域に設定している「緊急時避難準備区域」を今月末か来月上旬に一斉に解除すると発表した。そもそも事故発生から5か月も経って、同心円状で避難区域を分けている時点でおかしい。ホットスポットを除いて、私が行った南相馬市より郡山市や福島市の方が放射線量は倍以上高いのだから、ほとんど意味がなかったことは明白だ。

 表向きの解除の理由は、おそらく事故収束の第一ステップが終わって、爆発のリスクは減ったことと、新たな放射性物質の大量拡散はないという判断だからだと思う。だけど今までの情報公開のやり方をみる限りどうしても裏があるような気がしてならない。解除されてしまえば、私が今住んでいる神奈川と同じ扱いになる。あとは自治体でご自由にという話になるのではないか心配だ。

 だいたい政府が無策なものだから、各自治体が独自の予算を取って除染作業をやっている。2次補正でどこまで補填されるか分からないけれど、本来ならこれだけの汚染をもたらした国、及び東電が積極的に除染作業をするのが当然だ。何でそれを自治体が肩代わりしなければならないのか。解除するというなら、東京なんてリスクのすくないところではなく、文科省や経産省、国交省、環境省などで作った除染機関をここに置いて除染作業を行い、ちゃんと人々が安心に暮らせるような仕組みを作ってからにすべきだろう。

 南相馬に行くと、30㎞圏外の地域でさえ子供の姿をほとんど見かけない。こんな地域に誰がした。もちろん国や東電の責任は免れないないけれど、漫然と原子力発電を容認してきた私達大人にも責任はあるのではないだろうか。次回ボランティアに行って、除染のお手伝いができるならやってみようと思う。

2011年8月 8日 (月)

石川知裕著『悪党 小沢一郎に仕えて』を読んで

  東日本大震災と原発事故ですっかり影が薄れてしまった陸山会事件だけど、すでに論告求刑は終わって後は判決を残すだけだと知っている人がどれくらいいるだろうか。そんな事件の被告人、1996年から2005年まで小沢一郎の秘書だった石川知裕衆議院議員が書いた本だから凄く興味があった。

 私を含めて多くの人は素の小沢一郎なんて知る由もない。入ってくるのはマスコミを通してだ。田中角栄の秘蔵っ子、剛腕、壊し屋、金に汚い、建設業界との癒着等々、良い話はほとんど聞かない。自民党を離党して約20年間、常にダーティーなイメージが付きまとい、バッシングを受け続けた。これだけやられれば普通は耐えられない。今回も秘書が起訴され、自身も検察審査会で起訴相当とされ、党からは党員資格停止まで受けているのに、へこたれない。とても不思議な人物だ。

 この本には石川議員が逮捕に至った経過や小沢一郎の素の部分、考え方、それから秘書の生態が書かれている。特にレトルトカレーの話なんかは面白い。今まで知らなかった小沢一郎像が見えてくる。穿った見方をすれば、小沢一郎のイメージアップを狙ったものかとも思えるけれど、今さらイメージアップなんて出来るわけないし、逆に突っ込まれるのがオチだから、多分、本当のことが書かれているのだろう。

 こんなことばかり書いていると、きっと”お前は小沢信者だな”なんて罵倒されるかもしれないけれど、まあそれは仕方ない。人にレッテルを貼ってああだ、こうだ避難する方がおかしい。だいたい一昨年春から始まった西松事件、陸山会事件ってどうしても腑に落ちない。

 西松事件は訴因変更で消滅した形になり、今、審議中の陸山会事件も調書の3分の1は不採用になった。贈収賄事件で立件されているわけでもないのに、水谷建設からの闇献金の話ばかりがピックアップされている。つまりほとんどの人が疑問に思っている4億円の出所は全く問われていないのだ。その上、今回の事件を指揮したとされる大鶴最高検検事部長(事件当時)は先日早期退職したし、佐久間特捜部長は何とか研究所に配置転換されている。

 まあ、石川議員もたった2か月だけど期ズレの件は認めているから、完全に無罪になるかどうかは分からない。ただ昨年の村木事件を契機に、特捜部の闇の部分が徐々に分かってくる中で、今回の事件も不思議なことだらけだ。果たして、どういう判決がでるのか。もの凄く興味が湧いてきた。

 

2011年8月 7日 (日)

「陸前高田の薪、『五山送り火』に使う計画が中止に」のニュースで思うこと

陸前高田の薪、「五山送り火」に使う計画が中止に(朝日新聞)http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK201108070083.html

 この件は夕方のテレビ朝日のニュースで知ったのだが、何か凄く残念な気持ちになった。これぞ風評被害のなにものでもない。薪からは放射性物質は検出されていないのに、「放射能への不安」というのは理屈に合わない。こういうことが差別を助長していくような気がしてならないのだ。

 この背景にあるものは、やはり原発事故に対する政府への信頼が失われているということに尽きる。事故当初は「爆発があっても格納容器は健全です」などと言っておきながら、2か月経ったら、「メルトダウンどころかメルトスルーしてました」とか、「市中に出回っている食べ物は安全です」なんて言っていたら「牛肉から基準値以上のセシウムが検出されました」等々、もう何をどう信じていいか分からない状態になっているのだから、放射能に対して過敏になるのも致し方ない。

 ただ、今回の件は行き過ぎた対応ではないのか。被災者の立場に立って慰霊のために実施して欲しかった。ちゃんと薪からは放射性物質が未検出ということを報道すれば、大半の人は分かってくれると思うのだが・・・。同じ日本人として、悲しみを共有することができないというのが非常に寂しい。

 

 

都合の悪いことは報道しないのか。

  先週初めぐらいから、ネット上では某テレビ局に対するバッシングが凄いことになっている。内容の賛否についてを書くつもりはない。人それぞれいろいろな意見があっても良いからだ。だけど、おかしいのは、この件を系列局や系列新聞社が報じないのはともかくとして、他のテレビ局や大新聞が一切報じていないことだ。

 まあ、直接人命に関わる事件ではないし、新聞、テレビが敵対視するネット上での出来事だから無視しているんだろう。だけど有名人のブログやツイッターの炎上、タレントの脱原発宣言なんていうのは報道しているわけだから、やはり何か裏があると思えてしまう。浮かび上がるのはクロスオーナーシップによる縦のつながりと、記者クラブメディアとしての横のつながりで暗黙の裡に都合の悪いことは報道しないようになっているのではないだろうか。これは今回の原発事故報道にも繋がるような気がする。

 この1年ぐらい、ほとんどテレビを観なくなってしまった。観るのは話半分にニュースか、ドキュメンタリーぐらい。歳のせいかもしれないけれど、面白いと思う番組がないからだ。ニュースの論調は各局ほぼ同じだし、バラエティーはどこも似たようなものばかり、ドラマに至っては、まず役者ありきで、話は二の次みたいに感じてしまう。予算が削られているからなのか、あるいは能力がないからなのかそれは分からない。遅かれ早かれ、今のような姿勢を続けていけば、視聴者離れに歯止めがかからない状態が続くだろう。

 

 

2011年8月 3日 (水)

年甲斐もなく興奮してしまった。長岡花火大会のユーストリーム生中継♪

 良い時代になったもんだ。この2日間、ユーストリームで長岡大花火大会の生中継を観れたからだ。昨夜は途中からしか観れなかったけれど、今夜は最初から観たから感動倍増だ。以前から、確かに凄いとは聞いていた。ただ、自分の知識としては、日本で一番大きな3尺玉が上がることや、山下清画伯の「長岡の花火」ぐらいだ。

 まず、普段見慣れている花火大会と違うのは、花火が上がる前に女性アナウンサーが花火の種類やスポンサー、メッセージの紹介を行った後に「打ち上げ開始でございます♪」って言ってから始まる。この言葉がやけに耳に残るけど、決して嫌味なものではなく期待感を抱かせてくれる。

 次に花火の大きさに驚く。ほとんどが尺玉(直径30cm)の花火。ノートPCの小さな画面で観ていてもその迫力が伝わる。凄い。そしていよいよ正三尺玉。これが上がる時には、何故かサイレンが鳴る。5寸玉、尺玉と上がった後に本命が上がるから、その大きさが分かるという手筈だ。それから見たこともないような演出が始まる。天地人花火とかフェニックスと言われる音楽と一体になった、超ワイドスクリーンの花火だ。画面に収まらないくらい何か所からも打ち上げられ、音楽ともマッチしてもう芸術としか言いようがない。観ていて涙がでてくるくらい感動してしまった。

 毎年、テレビ東京で放映される隅田川花火大会は観るけれど、タレントのコメントが多くて辟易としていた。しかし、このユーストリームでは、メインはあくまでも花火で、それに解説を載せるというシンプルなものだったから凄く良かった。でも残念ながら、PCでは音の迫力や振動はあまり伝わらない。それは仕方のないことだ。やはり、それを味わうためには現地で生で体感しないといけないということだ。すでにネットでいろいろ調べてしまった。近い将来、絶対現地に行って観ようと思う。

 

2011年8月 1日 (月)

南相馬災害ボランティアagain【総括】災害ボランティアから生活支援ボランティアへ

 南相馬市から帰ってきて1日が過ぎた。余裕をもった日程を組んだけれど、やはり昨夜は疲れていてブログを書くことが出来なかった。ただ、その分、ぐっすり眠れたので、疲れはすっかり取れている。

 5月に行った時は、災害ボランティアは初めての経験だったので多少なりとも不安があったが、総勢25名の団体ということもあり気遅れすることなくボランティア活動が出来た。その結果、災害ボランティアというものに対して精神的なハードルが下がったことは事実である。ただ、個人的には合宿生活のように楽しい気分になってしまったことに、多少なりとも違和感を感じていたし、内輪とは言え物見遊山的な発言をしてしまったことに反省していた。

 今回はそういった反省を踏まえて、もう一度、同じ土地を尋ねてみたいという気持ちから始まった。到着した日、丁度、千年以上続く「相馬野馬追祭」が行われており、復興のともしびが垣間見えた。2か月半経って、南相馬の被災地では田んぼのいたる所にあった瓦礫の山はほぼ撤去されていたが、多数の船は残されたままになっていた。潰された車も数こそ減ってはいたが残っていた。前回、作業を行った家屋でも人が住めるような状態とは程遠かった。それでも被災者の方々は、仮設住宅や借り上げ住宅、あるいは避難所などで生活することで頑張っている。

 前回は団体行動ということもあって、なかなか地元の方と接する機会が少なかったが、今回は5日目に自転車でボランティアニーズを掘り起こす活動もしたし、支援物資の配布のお手伝いもしたので、そのご苦労を感じることができた。原発事故のせいで、家は壊れていなくても、家族バラバラになってしまった方もいたし、家は流されても明るく働いている女性にも会った。極限状態に置かれても、笑顔で話をしてくれた方々には自分自身、勇気を貰えたような気がする。

 また、全国各地から集まってきたボランティアの方々から、南相馬以外の被災地の様子、行政の対応、自分達の思いなど、いろいろな話を聞けて、その情熱に感心させられたり、”もっとこうすれば良いのに”という提案もボランティアセンターに行った。今日、8月1日から南相馬災害ボランティアセンターは南相馬生活支援ボランティアセンターと名称を変えて活動を開始する。南相馬市は単に震災被害だけではなく、原発事故による影響も大きいので、まだ支援の手は必要だ。とにかく本格的な復興にはまだかなりの時間が掛かるだろう。

 今回の活動を振り返ってみて感じたことは、自分にとって本当に有意義のある一週間が過ごせたということだ。なかなかこういう経験は出来ない。もはや人生の半分は過ぎた自分ではあるけれど、まだまだ目標を捨てず頑張ろうという気が起きたことは大きい。こういうことが出来たのも、FROMあしがらからの資金援助や相馬ポニー牧場、地元行政機関の協力があってこそだ。また、このブログやツイッターを読み、コメント頂いた皆様に感謝して、総括を締めくくりたい。

 

 

 

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