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2011年9月

2011年9月29日 (木)

「津波2m以下に抑えれば、高台移転は不要 宮城県分析」朝日の記事を読んで思うこと。

 宮城県が東北大学と共同でシミュレーションしたところ防潮堤などを整備し、津波を2m以下に抑えれば、高台移転は不要?との結果を出したらしい。(ただし、リアス海岸の部分は除く)http://www.asahi.com/national/update/0929/TKY201109290150.html

 まさか費用を抑える目的でこんなシミュレーションをしたとは思えないけれど、高台移転より、防潮堤を整備した方が費用が安く済むような書かれ方をしていることが気になる。これは、お金の問題なのかと一瞬、懐疑心が湧いてしまった。

 専門家がシミュレーションして被害想定をまとめることに異論はない。ほとんどの確率で当てはまると思う。おそらく地元の方々の中には、元の場所で暮らしたいと願う方々も大勢いるだろうから、こういう分析結果が出れば、期待が膨らむことは確かだ。だけど、今回、ハザードマップのようなものが作られていた地域でも、あれだけの被害を出してしまった。自然災害というものは、おそらく人間の想像を超えてくると考えた方が良いのではないだろうか。

 私は被災地を見て、自然に対する畏怖を刻み付けられた。そして、今回の震災では専門家と呼ばれる方々にもその想像に限界があることが分かった。この分析結果がそのまま反映されて復興計画の基礎になるかどうかはわからないけれど、まずは自然には絶対勝てないというところからスタートしないと、同じ轍を繰り返してしまうような気がしてならない。早急に結論を出すことなく、慎重に考えて欲しい。

 

2011年9月28日 (水)

「福島市除染計画」を読んで思うこと

 昨日、福島市が除染計画を発表した。(「fukushimajosen.pdf」をダウンロード)これを読むと一応、市が主体となって高線量の地域や公共施設、道路などは除染するようだが、低線量の個人宅や企業などは、マニュアルを作るので各自取り組んで欲しいと書いてある。また、民地で出た除去土壌は取りあえず敷地内に仮置きするようになっている。

 だいたい何で被害者がやらなければならないのか。当然、市民は納得しないと思う。地震や津波のような自然災害なら仕方がないけれど、あれだけ安全だと言ってきたんだから、国や東電が全て行うのが筋だ。そもそも低線量なんて書いてあるけれど、今でさえ福島市は平均1μSv/hを若干下回る程度の線量があるのだから、311前の放射線管理区域よりも高いのではないか?多かれ少なかれ被曝を助長することは間違いない。

 除去した土だって、仮置きなんていうことを言っているけれど、処理するところがあるのだろうか。決まらなければ、ずっと置きっぱなしになる。誰が好き好んでこんな危ないものを近くに置くだろう。引き受けてくれる所なんて無い。唯一あるとすれば、福島第一原発敷地内だけど、大量の土を置けるのかどうかは分からない。そうなると、あと残された道は、細野原発大臣が示唆したように、各地域で痛みを分け合うか、あるいは、原発周辺の土地を国や東電が買い上げて、そこに持っていくぐらいしか方法がないということになってしまう。これで地元の方が納得するか、それも難しい。

 とにかく一度生成されてしまったら、どんなことをしたって、数十年は放射線を出し続けるという厄介極まりないものが、大量にばら撒かれてしまったのだ。どうしたらいいのだろう。結局、どこかで誰かが犠牲にならなければならないというところに行きついてしまう。本当に罪深い。これでもまだ原発を作り続けようという方々の気持ちがよく分からない。

2011年9月27日 (火)

【少しネタバレあり】映画「僕たちは世界を変えることができない。 But, we wanna build a school in Cambodia.」を観て思ったこと

 「僕たちは世界を変えることができない。 But, we wanna build a school in Cambodia.」。青春ムービーらしい。しかも、普段TVドラマなんてほとんど観ないから知らない役者ばかり。今までだったら、まず観なかっただろう。でも、何かのラジオ番組で「実話を元にしたストーリーで、監督が若手の役者たちに舞台となるカンボジアの事は下調べたりしないように指示した・・・」というのが引っ掛かって観ることにした。

 話の内容は単純で、若者4人が150万円集めてカンボジアに学校を建てる物語。当然、紆余曲折はあるが、その困難を乗り越えて行こうとする姿を描いている。(Yahoo映画にもこの位は書いてあるので良いだろう) ただ、正直言って、久しぶりに嗚咽を抑えるのがやっとなくらい泣けてしまった。

 、恥ずかしながら、この映画を観るまでは、かつてカンボジアのポルポト政権が自国民を大量虐殺したことは知っていても、あんなに酷いことをしていたなんて知らなかった。そして、今日でもその影響は残り、地雷、エイズ、貧困等々様々な問題があることを、知っているようで切実には感じなかった。カンボジアのシーンで、私には彼らが演技しているのか、素で反応しているのかが分からない部分が多々あった。これはドキュメンタリーなのかもしれないと。原作者が出会ったガイドさんがそのまま出ているが、彼の話は涙なくしては聞けない。

 そして、これは自分もこの震災で災害ボランティアを経験したから、「そう、そう」と納得してしまうのだけど、「この活動に意味があるのか?」「単なる偽善ではないのか?」という葛藤にぶち当たるし、現地に行ってみて初めて実情が分かり、自分の力のなさ、情けなさを痛切に感じるというのも共感できる。でも、これは何かを真剣に取り組もうとしたから感じることであって、何もしなければ感じないことだ。彼らは彼らなりに答えを出すけれど、それも私の心に響く。

 こう書いてくると、何かとても暗くて重い映画のように思えるけれど、最後にはちゃんと勇気を与えてくれる。私も50近くになったけれど、こういう青臭いだけと揶揄されかねない映画にも感動する余地があったことは新たな発見だった。

2011年9月26日 (月)

私の好きな一冊。「『自分の力』を信じる思想」

 一念発起し、自分としては一生懸命努力しているつもりだけれど、なかなか上手くいかず、時々立ち止まることもある。こういうことは良くあるけれど、そんなときに開く本が数冊あるが、その一つが、PHP新書「『自分の力』を信じる思想」(2001年9月28日第一版、著者:勢古浩爾氏)だ。

 表紙の裏にはこう書いてある。「『勝ち組』に入ることだけを目指す生き方。競争ゲームから降りて「自分らしい楽で自由な人生」を目指す生き方。いま私達にこれ以外の「ふつう」の生き方は残っていないのか?

 生きる上で最強かつ最後に必要なのは、知力・体力・経済力でもなく「自分の力」。「充実感」などどうでもいい。勝敗の思想を解体せよ。自分で「考え」「まじめ」に努力するものだけにその力は与えられ、人生をまっとうすることができるのだ。・・・」

 私は一般的な同世代と比べてしまえば、もう全ての面で劣等感の塊になる。だから、極力比べないできたし、そういう場所も避けてきた。他人は他人、自分は自分と割り切ってきらなければ、耐えられなかった。でも、そうやって逃げてばかりいたって、何ら現状を打破することなんて出来ない。楽しくない。もっと自然体でいられないか。そういう思いがずっとあった。

 そうした時、本屋で目に入ったのがこの本だった。今までの自分が信じていた既成概念を打ち破ることが書いてある。共感する部分にはマーカーで線を引き、何度も読み返している。そうすると、不思議と心が落ち着いてくるのだ。下記の部分はとくに勇気づけられた。

 「『自分の力』をだしきれば、人生に『勝ち負け』はない。それが人生であり、それ以外に人生はありようがないのである。考えてみるがいい。どんなに悔しくても、どんなにみじめでも、これが自分であり、これが自分の人生だと受け入れること以外に、自分も人生もありえない。とするなら、自分のもてる力で生きていく以外にどんな方法があるだろうか。」

 今も多少迷いが生じているけれど、こう考えて出来るところまで頑張ってみよう。

 

2011年9月25日 (日)

30数年前、遭難しかけた話で盛り上がった夜。

 昨夜は小学校時代からの友人Aが実家に戻るというので、もう1人の同級生Bを加えた3人で久しぶりに飲んだ。途中、仕事中にもかかわらず友人Dも顔を出してくれた。皆、ボーイスカウト活動を通して同じ釜の飯を食った連中だ。いきおい当時の話になるのだが、やはり強烈な印象は西丹沢で遭難しそうになった話だった。

 我々が高校1年か2年の秋、リーダー1人を含めた8名で、丹沢湖を出発し山中湖へ行くことにした。ほとんどは林道を使い、山道と呼べるところはほんの数キロ程度なので1泊2日の行程なら何ら問題はない筈だった。天気も良くて初日は楽に宿泊地である”水の木”という場所に着いた。

 この辺り一帯は、車では林業関係者ぐらいしか入れないようになっているので、自然の宝庫である。江戸時代には、ここから切り出された木が幕府に献上されていたらしいし、その後もトロッコ列車のようなものが昭和20年代まで通っていた。そんな場所で満天の星空の元、食事をし、「心が落ち着くなぁ」なんて大人びた会話をしたものだった。

 翌朝は天気も良く体調にも問題はなかった。ここから山中湖に行くには切通し峠を使う山道と、明神峠まで林道を使いそこからは舗装された道路で三国峠を越えていく2つのルートがある。後者のルートは距離が前者の3倍ぐらいになるので、当然、昔から使われていた切通し峠越えを選んだ。お昼過ぎにはついて、山中湖畔で何かを食べる予定にしていた。

 歩き出すこと1時間。地図のとおり進んだはずなのだが、それらしき道が見当たらなくなった。間伐材が至る所に積み上げられている場所にきてしまったのだ。ここはどこだろう?一応、我々は読図法は勉強しているので、地図とコンパスを使って位置を確認した。まだ体力に余裕があったので、強引にでも目の前にある稜線まで登れば、きっと富士山が見えるだろう。そうしたら後は何とかなる筈だ。そう判断し、約1時間かけて稜線まで出てみた。ところが富士山の姿かたちも見えない。呆然自失。この時、強引に突き進んでいれば間違いなく遭難していただろう。

 リーダーの鶴の一声で、引き返してもうひとつルートを使おうということになった。ようやく分岐点まで戻る。お昼近くになっていた。15㎏程度の荷物を背負い道なき道を強引に登ったのだからかなり体力を消耗している。お昼過ぎには山中湖に到着する予定だったので、チョコレートや乾パン程度の非常食しか持っていない。お腹もペコペコである。

 それから先は一本道なので道に迷うことはないけれど、とにかく相当距離がある。しかも上り坂だ。もう皆無言で歩く。途中、誰かが倒れた。何とか立ち上がる。疲れているんだ。だけど、誰も手助けできない。延々と続く林道。ようやく道が開ける。明神峠だ。今にして思えば、ここから小山町に下る手もあったが、別のリーダーが山中湖まで車で迎えに来ることになっているので目的地を目指す。それから2時間ぐらい経っただろうか。フラフラになりながら夕方暗くなりかけた頃、目的地付近でリーダー達と合流することができた。皆、「助かった~♪」と安堵の声を上げたのは言うまでもない。

 その後の顛末は覚えていない。だけど、3人揃って、この体験が一番辛かったと30年以上経った今でも語るのだから、「これは一生モノの話だな」何て笑いとばした。気が付けば夜の11時を過ぎている。明らかに飲み過ぎで二日酔いは必至だが、たまにはこんな夜も良いもんだ。

 

 

 

2011年9月23日 (金)

石破茂氏の「『核の潜在的抑止力』維持のため原発続けるべき」という話に唖然とした。

 何気に2chを覗いていたら、。「『核の潜在的抑止力』維持のために原発は続けるべき」自民党石破政調会長のこんな記事が目についた。(http://www.news-postseven.com/archives/20110921_31301.html)もっとも、この記事がどう編集されているかわからないので一概には言えないけれど、本人が否定しているような気配はないので、似たようなことは言ったのだろう。

 石破氏は原発維持は潜在的核抑止力の維持というけれど、すでに30トン近いプルトニウムを持っているのだから、材料はいくらでもあるんじゃないの?と素人の私などは思ってしまう。研究開発だけなら、商用で原発がある必要はないのではないか?あるいは原発がなければ、原子力を研究する機関、人材が枯渇する恐れがあるからなのか?そして、そもそも54基も必要だったのか?突っ込みたくなる点は多々ある。

  私は原発事故が起こって以降、原発問題は右とか左とかはあまり関係ないし、ことさら煽るのもおかしいと思っていた。先日もIWJの岩上安身さんと一水会顧問の鈴木邦夫さんの対談を聞いて、真に国土を守りたいと願う右翼の方はちゃんと筋が通ってるなと感心した。

 だから、まだ福島第一原発事故が収束していないし、多くの人が住む家がありながら避難生活を強いられている中でこういうインタビュー記事が掲載されたことはとても残念でならない。「死の国」発言はけしからん、などと口では同情しながら、心の底では違うことを考えているのが垣間見えてしまった。被災者の事なんて二の次みたいだ。いろいろな意見があって良いとは思うけれど、原発推進を口にするなら、まずは「事故の収束と放射性廃棄物の処理をどうするのかをハッキリ提示してからにしてくれ!」と思うのは自分だけだろうか。

 

2011年9月22日 (木)

「中日・落合監督の今季退任」のニュースを聞いて思うこと。

 今日、中日ドラゴンズは今季限りで落合監督が退任し、来季は高木守道氏が指揮を執ることを発表した。3年契約の最後の年というのが表向きの理由らしい。今現在、中日はセ・リーグ2位で、まだ、優勝圏内にいる。仮に優勝を逃してもクライマックスシリーズがあるのだから、日本一だって夢ではない。それなのにシーズン途中で監督退任を発表するのは、どうしても不可解だ。

 おそらく真の理由が分かることは当面ないだろう。確かに今年の中日はチーム打率はセ・リーグ最低だし、あまり観客も入っていないようだ。だけど、彼が中日を率いてからの成績は決して責められるようなものではない。このまま続けていれば、きっと名将と呼ばれる監督になっただろう。私は巨人ファンだけど、落合監督率いる中日が一番嫌だ。とにかく彼の表情を見ていると、何か見透かされているようで、勝てるような気がしてこない。だから、中日に勝った時は嬉しい。

 中日球団代表は高木守道氏の就任発表の時、「新しい風を入れたい」と語っているが、御年70歳になり、一度監督経験のある高木氏が新しい風になるのだろうか。決して年齢で差別するわけではないけれど、やはり若い人に経験を積ませるという手もあるのではないだろうか。

 今年は私をプロ野球から遠ざけた。東日本大震災による開幕時期を巡る騒動があり巨人の横暴さに辟易とした。また統一球の採用で得点力が落ちたり、カウントの順番も変わり、何だか今までとは別の感覚になってしまった。それとともに地上波ではほとんど放映されなくなって観られなくなった。こんなことから野球が面白いと思えなくなってしまった。そんな中、また一人個性の強い監督がいなくなるのは、とても残念だ。プロ野球機構も本気で改革しないと、坂を転げ落ちるように衰退していくような気がしてならない。

 

2011年9月21日 (水)

猛威を振るった台風15号をうけて、考えたこと。

 凄い台風だった。ちょっと調べてみたら、上陸時に中心気圧が950hpaの台風なんて、平成16年(2004年)の台風22号以来のようだ。小田原市で10万人に避難勧告が出たというのも、記憶に無い。それに今回は風が物凄かった。地震でもないのにアパートが揺れるなんて初めての経験だ。正直言って、怖かった。

 ニュースを見ると、都心では帰宅難民で駅が溢れかえっている映像がたくさん映されている。311の東日本大震災の時も同じような光景を見た。電車はようやく再開し始めているようだが、今現在(10時半)でも運休している路線はある。ただ地震の場合とは違い、台風の場合はある程度の予測が出来るのだから、もう少し上手な対策は打てなかったのだろうか。

 もっとも台風が来るからといって、学校はともかく会社はなかなか休みにすることは出来ないし、今回は多くの会社が早めに終業にしたところも多かったから、何も対策を打たなかったわけではない。となると、結局は職場が首都圏に集中していることが問題ということになる。やはり一極集中は危ない。もし、首都圏直下の大震災が起こったら、大混乱どころの騒ぎではないだろう。

 もうそろそろ真剣に、遷都や分都を考えた方が良い時期なのではないだろうか。また、クラウドを駆使して在宅ワークやサテライトオフィスを普及させることも必要な気がしてならない。今回の台風で被災された方々の早期復興を願うとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

2011年9月20日 (火)

「復興増税」について思うこと。

 野田内閣になって、メディアは復興増税をどういう組み合わせでやるのかという論調になっている。多分、これは財務省が記者クラブメディアにリークして、世間の反応をみているのだろうけれど、財政に素人の私でも今の状況で増税なんてしたら、失われた20年が30年になることは想像できる。だいたい未だ復興のビジョンも正式に発表されていないのに、財源云々ばかりで辟易しているのは私だけだろうか。

 千年に一度と言われる災害があったのだから、復興させるために増税止む無しとプロパガンダされれば、大方の人は仕方ないと思ってしまうだろう。だけど、実際増税されれば、。収入増は望めないのだから、かなりの人が自己防衛に走るのは明らかで、間違いなく消費は減る。そうなったら、またデフレが進行してしまう。明らかに悪循環だ。

 今は非常事態なのに、財政の均衡なんて言っている場合じゃないだろう。そもそも国のバランスシートさえ公開されていないのに均衡もなにもない。また、こういう時に特別会計が使えないなんておかしいと思う人はいないのか。別に切り崩さなくても、これを担保に金を借りたっていいだろう。アメリカ国債だって中国の次に買っているんだから、これだって上手く活用できないのか。その他にも既得権益を考えなければ、いろいろアイデアが出てくるはずだ。それなのに何か斬新なことをしようとする意欲がみえない。

 まずは政府が「こうしたいんだ!」っていう明確なビジョンを示せ。先日の首相所信表明演説なんて、総花的で何らインパクトがない。これでは国民が前向きに考えようなんて思えないじゃないか。とにかく我々に希望を持たせてくれ。

 

 

 

 

 

2011年9月19日 (月)

今日は餃子を餡から作ってみた!

 ちょっとブログのネタに詰まったので、また餃子の話にしよう。私が「こういう餃子を食べて欲しかった!」と南相馬ボランティア参加者のメーリングリストに写真付で流したのがきっかけで、「餃子パーティ」の話が持ち上がってきた。それなら冷凍物では味気ないので、ちゃんと手作りしたものを食べてもらおうと考え、今日、試しに作ってみた。

 基本的な材料として、豚ひき肉、キャベツ、ニラに生姜とニンニクを少々、あとは適宜調味料(醤油、酒、オイスターソース等々)を使った。家には幸いフードプロセッサーがあるので、みじん切りは簡単にできた。

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 あとは手で混ぜ合わせれば、餡の完成。少し冷蔵庫で寝かす。

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 ちょっと入れすぎたので、少し減らして包み始める。これは意外と得意。Dsc_0352 
 

 今回はテストなので、一袋分(20個)にした。久しぶりだけど、並べると比較的大きさとかヒダが上手く揃っているかもしれない。

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 焼き方は9/3のブログに載せたので省略。同じようにやって完成ヽ(^o^)丿

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 やはり自分で作ると美味しい。ただ、改良点がないわけではない。1点目は肉と野菜のバランス。もう少し野菜を多めにした方がもっとジューシーだったかもしれない。2点目は調味料の工夫、これは具材や量も絡むから試行錯誤しながら決めていくしかないな。もう一回ぐらい作ってみよう。

  
 








2011年9月18日 (日)

歩け歩け大会になってしまった「第27回、巨峰の丘マラソン」

 巨峰の丘マラソンは、日本一の巨峰の産地、山梨市牧丘町で行われる大会で5㎞、10㎞、20㎞の3つのカテゴリーがある。私は無理をせず10㎞コースを選んだ。巨峰畑の中を縦横無尽に走ると言ったら大げさかもしれないが、主に広域農道を使っているためかアップダウンが物凄い。ただ、のどかな景色と遠くに富士山が見える中を走れるのは、気分転換になるかもしれない。

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 私は2年ぶり2回目の出場となる。前回は両アキレス腱に違和感がある状態で出走してしまい、ヘロヘロになりながらゴールまでは辿り着いたものの、この時以来、両アキレス腱炎に悩まされている。約2年間リハビリに通い、治って走れるようになったと思えば、次にはふくらはぎを痛めたり、またアキレス腱を痛めたりと、1年間を通して満足に走れない状態が続いていた。今回、脚自体はほとんど問題はなかったのだが、先月、火祭りロードレースから怠けてしまって、練習不足は否めない。こんな状態だと、今までだったら躊躇なく出走辞退していたが、「ボロボロになってもいい、これを機に再挑戦するんだ」という意識が芽生え、出場することにした。

 9時50分、スタート。どんなマラソン大会に出てもそうだが、この時の参加者全員の一体感がたまらなく好きだ。コース自体は経験済みなので、「こんなに遅くても良いの?」っていうくらいの速度で上って行く。すでに1㎞手前から歩き出す人が現れ始める。とにかく勾配がキツイ。また延々と上り、2.5㎞が過ぎ橋を渡って右折したところから始まる上り坂が特に難関だ。もう私の周りは歩いている人だらけ。耐えられなかった。日差しも強くなり3㎞の看板を過ぎたあたりから歩かざるを得なかった。

 この坂を上りきれば、あとは下り一方だろうと思いがちだが、さらに緩やかなアップダウンが続く。ようやく5㎞。とにかく平坦なところはないように感じる。下りは何とか走る気力が起こるが、上りになると暑さも加わって、とても走る気持ちになれない。給水所で水をかけると少し正気になって、ちょっとだけ元気になる。それでも、この大会ぐらい1㎞が長く感じることはないような気がする。あまりにヘロヘロな表情だったのか係員に「大丈夫ですか?続けられますか?」と訊かれてしまう有様だ。でも、もう上りは走れない。

Dsc_0349_2              (右手奥の木の下あたりからが最後の下り?)

 ようやく「あと、ここを曲がれば、ゴールまで一直線の下りだから」という声がかかる。何とかゴールに辿り着いた。当然ワースト記録。ゴール後は巨峰のサービスがある。だいたい両手一杯ぐらいは貰えるのでかなり食べごたえはある。会場の周りでも農家の方が試食させてくれるので、上手く回れば一房ぐらいは食べれるかもしれない。やはり産地で食べる巨峰の味は最高だ。

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                      (参加賞の巨峰)

 今回のレースは前回のリベンジどころか、ものの見事に返り討ちにあったわけだが、アキレス腱やふくらはぎに違和感が出なかったことは収穫だった。これで走り込みができるような気がする。もう一度、フル完走目指して精進しよう。

 

2011年9月17日 (土)

小泉訪朝から9年が過ぎて思うこと。

 あまり報道されないけれど、小泉首相が訪朝して今日で9年が過ぎた。だけど拉致問題は解決の兆しすら見えない。被害者家族の方々も高齢化が進んでいるから、早く何とかしてあげたいと願うのだが、今や六か国協議すら再開の目途は立たない状況なので、交渉の余地すらない感じだ。

 当時から、食糧不足や電力事情の悪化、経済の逼迫で、すぐにでも北朝鮮は破綻するかのような言われ方をしていた。2、3年前には、金正日重病説も流れたが、何ごともなかったように金正日体制は続き、後継者も三男の金正恩に指名されている。経済的には、おそらく中国やロシアが陰で支えているんだろうけど、本当によく分からない。

 時々、核実験やミサイル発射実験をしているけれど、国家滅亡を代償にしなければ、日本や韓国相手に全面戦争なんてできないし、仮に勝ったところで経済的に豊かになるわけではないだろう。ただ単に金正日体制の維持だけが目的だとしたら、住んでいる国民があまりにも気の毒だ。

 拉致被害者のこどだって、もう北朝鮮が拉致事件を認めてしまったのだから、生存しているなら帰してあげればいいし、万が一にも不幸なことになっているなら、被害者のご家族が納得いくまで包み隠さず、説明するのが解決への道筋だと思うのだが、逆に約束違反だと態度を硬化させたままになっている。どうしたらいいのだろう。私に出来ることは、この事件を決して風化させないという思いを強く持ち続けることだけなのだが、何とももどかしい限りだ。

 

2011年9月16日 (金)

「原発事故補償の申請に大きな壁 」(ブルーグバーグ)というニュースを読んで。

 ブルーグバームのニュースサイトにこんな記事が載った。「原発事故補償の申請に大きな壁-200ページ超の請求案内に怒りの声(http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920019&sid=aAaptHdS49YY

 東電と国はどれだけ被害者を苦しめるんだろう。さすがに日弁連も問題点を指摘し、声明を発表したようだ。詳細な書類の内容は分からないけれど、説明書だけで約160ページ、申請書類が約60ページと聞いただけで、辟易する。まさか書類をポンと送って、「いつまでに提出して下さい。」なんてことにはならないと思うけれど、こういうのは加害者側が一軒一軒回って説明するのが筋ではないのか。

 官房長官から念のための措置だと言われ避難させられて、結局はいつ帰れるのか分からないまま、避難生活を強いられ、財産はどうなるか分からない、仕事もどうなるか分からない、その上、こんな書類を読まされるのは辛いし、まして領収書云々の添付なんて言われたら、はらわた煮えくり返る思いだろう。

 仮にこの交渉を不服として損害賠償を訴えようと思っても、警戒区域は入れないのだから、被害額を算出するのは至難の業だし、裁判になったらなったで、相当な年月がかかってしまうだろう。やはり日弁連の声明にあるとおり、費用は東電がもった上で、法律の専門家が個別対応し請求する方法がベストなのかもしれない。そうでなければ泣き寝入りする人達がきっと出てくる。

 このような原発事故の後始末をみるだけでも、その罪深さが分かる。この件について、原発推進派の方々は、どういう解決策を提示してくれるのだろう。是非、聞いてみたいものだ。

 

 

2011年9月14日 (水)

「Windows 8」が開発者向けに発表されたようだけど…。

 今日、アメリカのアナハイムで行われているマイクロソフト開発者向けのカンファレンスで次期OSの「Windows 8」が発表された。発売は来年になるらしい。詳細な機能については、これからいろいろなところで紹介されるだろうけれど、タブレット端末を意識したものになっているようだ。一応、Windows7環境では使えるようなので安心したが、すんなり載せ替えが出来るかどうかはやってみないと分からない。

 個人的な感想になるけど、クラウド・コンピューティングが進展をみせる中、一般ユーザーがOSを意識するのはだんだん薄れていくように思える。今、一般人のパソコン利用のほとんどが、Webサイトの閲覧やメールになっているのではないだろうか。私は仕事柄、WORDやEXCEL、Power Point等のビジネスソフトを使う。

 しかし、これだって、私の作っているファイルのレベルならGoogle ドキュメントを使えば、事は足りてしまうし、複数の人と共有することを考えたら、Google ドキュメントの方が使い勝手が良いかもしれない。そう考えればOSは軽くてセキュリティーがしっかりして安価なものに移行していくのは必然の流れだ。

 今、私がWindows7を使っているのは、まだ多くのファイルがWindowsに依存しているからであって、そうでなければ、とっくにLinuxのようなオープンソースのOSに代えているかもしれない。マイクロソフトはWindowsがデファクトスタンダードになってから、ユーザーを軽んじてきたように思う。特にXPからVistaの時はそうだ。

 確かにパソコンの情報処理量は飛躍的に大きくなったから、OSもそれに合わせて進化させようとするのは分かるけど、バージョンアップによって、様々な面で苦労してきた一般人または企業は多い。だから、クラウド時代になってOSの重要性が低くなれば、あえてWindowsにしなくても良いと考える人は増えるはずだ。

 コンピュータの使われ方もこの10年で大きく変わってきた。何年かすれば、パソコン自体がなくなる可能性もある。また来年以降、Googleがオープンソースの「Chrom OS」をリリースすると言われている。こちらは無料だから、マイクロソフトを脅かすのは間違いない。どちらが企業、および一般ユーザーのニーズに応えられるか、冷静に推移をみていきたい。

 

 

2011年9月12日 (月)

たまには気分転換。伊豆半島を一周して昔の自分と比べてみた。

 ボランティアから帰ってきて10日以上経つ。特に強行日程ではなかったので肉体的には何にも疲れていないし、夜だって良く眠れるのに、何となくテンションが上がらない日々が続いていた。確かに現在、自分の置かれている状況は経済的に超不安定で、先行きも全く見えないけれど、それは当初から見越していたことであって、今日明日、破綻するようなこともない。気分転換に私の一番好きな場所に行ってみた。南伊豆の弓ヶ浜だ。

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 サラリーマン時代、主に担当していた営業先が伊豆半島にあったので、だいたい週一回は回っていた。弓ヶ浜はルートからは外れるけれど、行き詰った時や落ち込んだ時に立ち寄って、ただこの景色を20~30分眺めていた。すると結構、気持ちが楽になった。

 会社を辞めてからも、気分転換をしたい時、何か難しい問題を抱えた時には来るようにしている。今日はまだ暑かったので海水浴客もいたが、秋から冬にかけては人も少なく本当に落ち着ける場所なのだ。

 その後は、たいてい石廊崎から妻良(めら)、子浦、雲見を通り松崎に出るが、今日は一度、下田に戻り婆娑羅峠経由で松崎に出た。このルートは当時、良く通っていた道だ。たいてい無理難題を背負って走っていた辛い道のり。そして松崎から西伊豆へ。ここでもお客さんがあって、さらに難問を抱えることが多かった。今となっては良い思い出だが、あの頃はそんな余裕はなかった。只々、沼津の事務所に帰って解決策をどうひねり出すかに終始していたように思う。

 それから安良里、宇久須を通って土肥に出る。途中に”恋人岬”があるけれど華麗にスル―(笑)。普通ならここから船原峠を越えて天城湯ヶ島に向かうが、今日は戸田から大瀬崎経由で行ってみた。20年ぐらい前は道が狭く難儀したが、今ではだいぶ道が広がって、ところどころに見晴らし台みたいのが出来ている。戸田もこんなに綺麗に見えた。

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 このルートを通る時は、運転中に問題解決の目途がつかず、あまり早く事務所に帰りたくなくて、駿河湾に沈む夕日と富士山を見て気を紛らわせたかったからだ。いつも何かに追われ、それをこなすのにやっとだった。あれから自分はどれだけ成長したのだろうか。まあ、今もあまり変わってないし、あの頃より経済的にははるかに厳しいけれど、こんなにのんびり富士山を眺める余裕はなかったかもしれない。

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 今日は天気も良く、この時期にこんなに富士山が綺麗に見えたのも珍しい。明日からパッと未来が開けるわけではないけれど、諦めずに前向きにいこうという気持ちになれたことは大きな収穫だった。 

2011年9月11日 (日)

東日本大震災から半年が過ぎて。

 午後2時46分、部屋の中だけど黙祷した。あれから半年、長いようで短かった。活動期間は16日間だったけど、南相馬市にボランティアにも行った。津波被害の惨憺たる状況を見たり、いろいろな方との出会いがあり、私自身の考え方も大きく変わったように感じる。

 今までだったら実際に行動を起こしていたか分からない。でも、今回はとにかく自分で出来ることはやりたかった。だけど資金は乏しく方法も分からない中で、4月末、偶然にも「FROMあしがら」と出会い、支援を受け、2度、3度と行くことができたのだった。いろいろなことがあったが、やはり、原発事故のために家族がバラバラになってしまった農家の方と話したこと、イベント会場近くに住むおばさんとの話は忘れられない。

 それに街は活気がなく子供は外で遊べない。子供の姿すらほとんど見ない。やっと見たのは7月末の復興イベントの時だった。その時の子供達の楽しそうな姿は嬉しくもあり、放射線のことを考えれば、悲しくもなった。本当は疎開してもっと自由に遊んでほしいと思っている。

 毎回、どうしたらこの町は復興できるんだろうと考えた。少なくとも原発事故が完全に収束してからでないと話にならない。津波だけでなく放射能で汚染された田んぼ、山、川、除染なんて簡単に出来る訳がない。あまりにも制約条件が多すぎて、簡単に答えは出ない。ここに南相馬市が8月17日に発表した復興計画書がある。http://www.city.minamisoma.lg.jp/mpsdata/web/5118/vision.pdf

 残念ながら、役所にありがちな総花的な内容であり実現可能性は低い。これを見て頑張ってみようという人がどれくらいいるだろうか。やはり、もっと具体的な計画を立てる必要がある。ただ私自身が自分の提案を出来ない時点で批判できないことも確かだ。本当にどうしたらいいんだろう。一介のコンサルには難しすぎる問題だ。

(今夜は纏まりのないものになってしまった、反省!)

 

 

2011年9月10日 (土)

震災後、あらためて読む小松左京原作『日本沈没』

 小松左京氏が亡くなって49日が過ぎた。氏の作品で一番好きなのが『日本沈没』。私が9歳の時、初めて観た大人の映画だ。もちろん両親に連れられて行った。映画館は満員だったが、その内容は物事が良く分からない自分にもかなりの衝撃を与えた。それから40年近くなるが、映画は何回も観ているし、小説も舐めるように読んでいる。

 この作品の面白さは、未曽有の災害に日本民族はどう立ち向かうのかという大きなテーマとともに、日本沈没という大変動を発見するまでの過程と、1億2千万人の日本人をどうやって海外に逃がすかという政府の苦悩を赤裸々に描かれていることだ。私が特に印象にのこっているのが、日本と日本人の未来を考えた3人の識者が影のフィクサー渡老人に手渡すシーンだ。映画では首相と渡老人との対談になっているが、ここで話される日本人論は言いえて妙だ。

 311の震災の後に読むと、この作品に描かれる日本人像が妙に符合するから不思議だ。同胞を救うためには危険地帯であれ勇猛果敢に突っ込み、自分より若い人達を優先して逃がそうとする。この国民性は他にはないのではないか。そして、最後に渡老人と大変動の発見者である田所博士と、日本人論を語り合う。この掛け合いは21世紀になった今でも通じるようなことのように思えるのだ。

 明日で震災からちょうど半年が経つ。相変わらず国の中枢は脚の引っ張り合いを続け、うんざりするが、少なくとも日本という大地がある限り、その魂は生き残り必ず今以上の復興を遂げるに違いない。亡くなられた小松左京氏のご冥福をお祈りします。

 

2011年9月 9日 (金)

「死の町」発言を聞いて考えたこと。

 「死の町」発言。確かに衝撃的な言葉だし、今の経産相が言うのは被災者の気持ちを傷つけるかもしれない。マスコミお得意の言葉狩りは結構だが、実際問題、福島第一原発のある大熊町や双葉町には人も住めない状況だし、ましていつ帰れるかなんて誰も分からない状態なのだから、少なくとも「異常な状態」であることに間違いはない。これをどう表現すれば非難されない答えになるのだろう。

 私は南相馬にボランティアに行く途中、飯舘村を通ったけれど、村として機能しているとは思えなかった。ガソリンスタンドが営業していたり、一部企業が操業しているようだが、ほとんどの商店は閉まっているし、家を見てもカーテンが閉まっていて人の気配はない。もう気の毒なくらい閑散としていた。そんな村を見て「こんな長閑なところなのに将来どうなるんだろう」と、同乗者同士で話した。

 「チェルノブイリと同等以上に汚染されているとなれば、少なくとも25年以上は帰れないことになる。確かに除染技術が進んでもっと早くなるかもしれないけれど、甘い見通しでは余計苦しめることにならないか。」「放射性廃棄物を引き受ける代わりに、ちゃんと損害を補償した上で、少なくとも収入面では苦労しないような配慮をして、移住を勧めた方が良いのではないか?」「それでも住民がそこに住みたいといったらどうする?」。車中いろいろな意見は出たけれど、結局、結論は出なかった。

 南相馬でも警戒区域から避難している人の話を聞いたけれど、「多分、もう住めないだろう」と言っていた。また、「もう避難しろって言われても逃げないでここに残る」とか「お金はいらないから、元に戻してくれ」という人もいた。私は言葉に詰まって、単に「そうですね」と頷くのが精一杯だった。そして現実を一番直視して理解しているのは地元の方々だということが良く分かった。

 事故から半年経とうとする今、政府のやるべきことはつつみ隠さず事実を伝え、避難されている方が将来的に希望を持てるような方策を出すことではなだろうか。マスコミも言葉狩りではなく、政府や東電にどう対応するのかを質すことが先だろう。野党も、この発言を巡って、国会追求や罷免要求なんて馬鹿な真似だけはやめてもらいたい。とにかく地元の方の立場に立って迅速に3次補正予算を通して欲しい。 

 

なでしこJAPAN、ロンドン五輪出場権獲得おめでとう!女子サッカーが根付くと良いな。

 私は7月のW杯で優勝するまでは、女子サッカーなんてほとんど興味がなかった。男子に比べれば、スピード、テクニック、戦術には劣るからだ。でもW杯で見せた、ひたむきな姿勢に感銘を受け、今回のロンドン五輪予選にも注目するようになった。

 11日で5試合、最初は聞く耳を疑ったけれど、この暑い時期にやるスポーツとしては、いささか強行すぎる。しかも明るい時間が多い。W杯優勝後、マスコミの取材とかなでしこリーグ再開とか、満足に休養がとれているとは思えなかった。本当に大丈夫なんだろうかと心配した。

 その心配のとおり、タイ、韓国、オーストラリアと一応、3連勝したけれど、W杯の時と比べると、格段に運動量が落ちているのが分かった。ボールに対する反応が鈍い。それでも勝ったのだから地力はあるのだろう。今日の北朝鮮戦、最初からは見れなかったが、ほぼ一方的に押し込まれていたようだ。明らかに北朝鮮の方が運動量、気迫が勝っていた。

 それでも後半37分、一瞬のチャンスをものにしたのは素晴らしい。オウンゴールとはなったけど、あれは北朝鮮の選手に非はない。問題はその後だ。1点リードしたら、日本チームはそれまでとは打って変わって、動きが良くなりパスが繋がるようになった。そして、宮間選手がコーナーキックを蹴る時、佐々木監督から”キープ”の指示。まだ5分もあるのに、もう時間稼ぎ?あれで流れが変わったように思う。しかも、交代枠がまだ2つもあるのに、それも使わず疲れきった選手をそのまま使った。これがロスタイムの同点劇に繋がる布石になったのではないだろうか。終了後の選手達は負けたような表情だった。

 最終戦はホームの中国だから何となく嫌な予感が漂ったのだが、夜の試合でオーストラリアが中国に勝ってくれたおかげで、ロンドン五輪への出場を決めた。今回の五輪予選は手に汗握る展開が多かったけれど、多分、選手のコンディションが悪かったのだろう。そういう面を考慮すれば何はともあれ素直に”おめでとう!”と言いたい。

 

2011年9月 7日 (水)

「エネルギー政策 展望なき「脱原発」と決別を(9月7日付・読売社説)」に物申す!

 今日の読売新聞の社説には頭にくるのを通り越して呆れ返った。こんな話は最低でも原発事故が収束してからの話だろう。まずは読売新聞本社を南相馬市に建ててから書いてくれ。これを書いた記者は実際に南相馬市に行って地元の人と話をしたことがあるのか。皆、心の底では目に見えない恐怖と闘っているんだぞ。

 私は恥ずかしながら、この事故があるまで原発を強固に推進したのが、元読売新聞社社長の正力松太郎だとは知らなかった。そして、原子力村と呼ばれる人々が自分たちの利権構造をどんどん固めていく過程も初めて知った。結局、自分もそいつらに洗脳されていたということになる。親の都合で購読しているけれど、もう絶対に洗脳されないと誓っている。

 彼らはよく安全な原発というけれど、だったら東京湾岸の埋立地に造れるのか?疲弊した地方は金で釣ろうと考えているかもしれない。だけど、一旦、事故が起こったらその土地に住めなくなるかもしれないし、補償だって曖昧なことがはっきりしたのに、どこが受け入れるというのだ。

 だいたいこの社説には肝心なことが書かれていない。放射性廃棄物処理のことだ。消費税論議では、「子供たちの世代にツケを残すな!」みたいな財務省べったりの記事を載せるくせに、子供どころか何世代も先にツケを残す放射性廃棄物のことなんて殆ど書かない。欺瞞に満ちているといっても過言ではない。

 アメリカやフランスが引き取ってくれるのか?それともモンゴルが引き取ってくれるのか?ガラスコーティングして地中深くにうめるのか?はたまた、どこぞの学者が言うように日本海溝に沈めるのか?まず、その解決策を示してからじゃないと、何ら説得力を持たない。日本は技術立国なんだし、新しい産業にもなり得るんだから、新エネルギー創出を目指すというのが筋だと思う。

 

2011年9月 6日 (火)

今西憲之氏にジャーナリスト魂を感じる。

 今日発売の週刊朝日にスクープルポとして「福島第一原発に入った」という記事が載った。書いたのは、フリージャーナリストの今西憲之氏。彼は昨年、郵便不正事件で厚労省村木厚子局長が無罪判決を受けた件でも本を出しているし、昨年秋から始まった週刊朝日UST劇場にもたびたび出演し、大阪弁丸出しのキャラで私を楽しませてくれていた。Twitterでも気さくに返信してくれる。だが、書く内容は気骨精神に溢れている。

 私の知っている限り、部外者が福島第一原発に入って何かを発表したのは、青山繁晴氏、小原一真氏、そして今西憲之氏の3名だ。賛否両論はあるけれど、やはり現場に入って取材したものの信憑性は高い。だいたい、作業員は平気で被爆させておいて、その危険を覚悟で取材しようとするジャーナリストを入れない時点で、何かを隠しているといわれても反論できまい。

 今でも毎日、東電や保安院の会見は行われているが、新たな展開が見られないので、新聞、テレビは報道量が極端に減った。しかも、根拠も乏しいのに、「原子炉の冷却が進んでいます」だの、「汚染水の処理は順調です」といった、当局の都合の良い情報ばかりを出している。結局、発表報道しか出来ないのだ。これでは単なる広報である。権力を監視するのが本来の役割のはずなのに全く機能していない。だから、私は大手メディアに幻滅する。

 だからと言って、フリージャーナリストが全て素晴らしいとは言わない。誰にだって間違いはあるし、どこかの工作員かもしれない。でも、今、世界一危険な場所に入り、その状況をありのままに伝えようとするジャーナリストは素晴らしい。これこそ私の求める情報だ。この記事を書いた今西憲之氏を尊敬したい。

 

 

 

 

2011年9月 5日 (月)

【台風12号】自然よ、もう許してくれ。

 8月25日に発生した台風12号は今日(9月5日)温帯低気圧に変わった。だけど、まだその影響は北海道に及ぶようで大雨に対して油断ならない状況のようだ。今回の台風は速度がゆっくりだったこともあり、紀伊半島を中心に大雨となり、現時点で死者30名、行方不明者も50名を越えるという大きな被害を出してしまった。自然の脅威は恐ろしい。

 被災地は例年、雨の多い地域のようだが、さすがに累積雨量が1,000~1,800ミリというとんでもない量となれば、どこで土砂崩れが起こっても不思議ではない。単純に考えれば地震や津波とは違い、台風の進路や予想雨量などが分かっていたのだから、何故その前に避難できなかったのかという疑問が残る。また田辺市では避難勧告が出なかったというのも不可解に感じる。

 しかし、仮に避難勧告をしても、タイミングを誤れば避難途中で犠牲になる場合もあるし、既に避難できないような状況だったのかもしれないので、一概に良い悪いということは言えない。町の事情は役所が一番把握しているはずで、外野の我々がとやかく言うことではない。ただ、こうした被害を防ぐためには危険を察知する前に、ある程度の雨量を計測したら避難するような仕組みが必要なのかもしれない。これは早急に検討すべきだろう。

 今年は3月の東日本大震災による津波被害、7月の終わりから8月の初めにかけての中越、只見地方での水害、そして今回の台風12号の水害と、大きな水難が続いている。まだ台風シーズンは始まったばかりなので油断はできないが、もし、水神様と呼ばれる方がいるのなら、もうこれ以上、試練を与えないで欲しいと願うばかりだ。今回、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします。

2011年9月 4日 (日)

マスコミ不信。何も仕事してないのに”支持率”って表現はおかしくないか?

 野田新内閣になって、各マスコミは週末世論調査を行った。内閣支持率は60~70%ぐらいとなり、菅政権末期に比べてV字回復したと報道している。でもこれって、小泉政権以降、毎回同じようなパターンじゃないのか。そもそも何も仕事をしていないんだから単なる期待値みたいなもので、回答者だって単に顔ぶれをみて、決めた人がほとんどだろう。

 一応、統計の勉強もしたことはあるので、こういった世論調査がまったく意味の無いものとは言わない。だけど、気に入らないのは標本(サンプル)の性別や年齢構成を発表していないことだ。ほとんどの場合、単に”20歳以上の男女○○人、有効回答率は○○です”ということだけだ。これでは、この標本(サンプル)が本当に母集団を反映したものになっているのか判断できない。だから、これらの世論調査をもって、国民の総意みたいな報道は正しくないと思う。

 それにアンケート調査は設問の仕方や聞き方によって、ある程度回答を誘導してしまうことも出来てしまう。だから、どういう風な設問だったのか、どのように聞いたのかまで明らかにしないと、信憑性は低くなる。私もいろいろなアンケート調査を行ったことがあるが、結果報告には標本の構成やアンケート方法、設問の仕方などは必ず掲載していたものだ。

 最近は費用が安くなったからか、大手マスコミは世論調査を乱発するようになっている。緊急の場合を除いて、だいたい1ヶ月毎にはあるけれど、こんなに頻繁にやる必要があるのか。政策の実行状況なんて1ヶ月単位で全て進行するわけではないから、判断材料とすれば、マスコミが良い印象で報じるか報じないかで決めているようにしか思えない。それで、何かあれば「支持率が上がった、下がった」といって騒ぐ。これが今の政治家を萎縮させる一つの原因になっていないだろうか。

 数年ぐらい前から漠然とマスコミに対する不信感はあったけれど、311震災と原発事故以降、さらに強くなった。特に原発事故ではもう何が本当のことなのか分からなくなってきている。こうしたことからマスコミの情報を単に信じるのではなく、出来るだけ多方面から情報を取って、自分で判断していくことを心がけよう。

 

2011年9月 3日 (土)

南相馬災害ボランティア3rd【番外編】こういう餃子を食べて欲しかった。

 ボランティア最終日は南相馬市ではなく相馬市での活動だった。あまりにも体が汗や泥で汚れていたので、「はらまちユッサ」という温泉施設に立ち寄って汗を流し、それから夕食の買い物に行ったので、ポニー牧場に帰ったのは7時を回っていた。

 夕食のメインは餃子にしようということで、私のテンションは上がっていた。十年近く前に見たテレビ番組で紹介していた焼き方を覚えてから、一度も失敗したことがなかったからだ。ところが、慣れない業務用のコンロだったからか、フライパンがいけなかったのか、80個のほとんどがフライパンにくっついてしまい。皮が剥がれてしまった。「餃子を焼くなら俺にまかせろ!!」って豪語したから、正直言って、相当ショックだったことは言うまでもない。

 そこで今日、冷凍物の餃子だが再挑戦してみた。 基本は茹でた後に焼くという方法だ。特にテフロン加工はされていないフライパンに並べる。

Dsc_0327  

 小麦粉水を餃子の約半分ぐらいまで入れて蓋をする。

Dsc_0328

 5~6分ぐらい経ったところ。良い感じだ。

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  ほとんど小麦粉水がなくなってきた。ここでごま油を少し入れる。どのくらい焦げ目がついているかは、周りの小麦粉で判断できるから、焦げすぎることも少ない。

Dsc_0330_2  

 下記のように完成(^o^)丿。パリッとした羽根付き餃子の出来上がりだ(^^♪。

Dsc_0331  

 やれば出来る子なんだけどなぁ。肝心なときにミスをしてしまう悪い癖が出てしまった。こういうのを皆に食べてもらって、有終の美を飾りたかった。次回、機会があれば、皮は無理だけど餡から作って食べてもらおう。

2011年9月 2日 (金)

南相馬災害ボランティア3rd【総括】今回のボランティア活動を通じて思ったこと

 昨日の夕方、全員無事に帰ってきた。責任者としては安堵している。とにかく予測がつかないのは事故や怪我だからだ。参加者全員がその意識を持って行動してくれたおかげだったと思う。

 今まで2回ボランティアに行ったが、その時と違うのは石巻や女川など、南相馬や相馬市以外の被災地に行けたことだ。石巻では市街地にもかかわらず、信号に電気が通っておらず警察官が手信号で誘導していたし、海沿いの市街地は壊滅的な状況だった。女川では、もう爆心地にいるかのごとく周りは破壊されつくされ戦慄を覚えた。さすがに写真を撮ろうという気にはなれなかった。

 南相馬市も5月の時から比べれば、いたる所にあった瓦礫の山もほとんど撤去され、災害ボランティアとしての活動(家財だし、泥だし、瓦礫撤去など)は縮小されつつある。9月10日で災害派遣等従事車両証明書の発行もなくなれば、遠くから来るボランティアも減っていくだろう。仮設住宅も着々と建設され、見た目にも次の段階に入っているようだ。これからは国や自治体が復興事業として地元企業に仕事を出し、雇用を生むような方向になっていくことが望ましい。

 ただ、他の被災地と違って、福島県浜通りにある南相馬市は放射能汚染という大きな問題を抱えている。街も警戒区域、緊急時非難区域、特定避難勧奨地点、何でもない区域と4つに分断されている。警戒区域の小高区は今もって入ることが出来ないから、ボランティア活動なんていつになるか分からない。

 そういう状況で必死な思いで復興に望もうとしている人もいれば、諦めてしまっている人もいるらしい。事故から半年近くも経ち南相馬の人達は、放射能に対してどういう対応をとるべきかの自己判断を迫られている。たしかに今現在は「直ちに影響はない」けれど、この先、5年、10年後、どういう影響が出るのか分からないということをよく知っているからだ。「家族内でも意見が分かれ、バラバラになってしまった家庭も少なくないんですよ。」という話も何回か聞いた。住む家がありながらもこうした事態に陥っていることに、私は何と励ましていいか言葉に詰まった。

 南相馬市では復興の象徴として、田畑にヒマワリが植えられていた。地元の方とボランティアの人達が種を蒔いたという。我々が行った時にはすでにピークを過ぎていたが、それでも壮観な眺めだった。それは人々に諦めてはいけないと投げかけているようにも思えた。完全な復興は何年かかるか分からないけれど、私はこの地を絶対に忘れない。「がんばろう、南相馬」

 

モブログのテスト

モブログのテスト
PCを修理に出すついでに旧xpパソコンの再インストールと、スマホからのブログ投稿を確認しています。写真も添付してみよう。

2011年9月 1日 (木)

南相馬災害ボランティア3rd【7日目】松川浦遊歩道の整備

  パソコンのキーボードにコーヒーを少しこぼしてしまい、通常入力が出来なくなってしまって他のパソコンから投稿していたのだが、インターネット回線にも繋がらなくなってしまったので、今夜、昨日の活動内容を簡単に書きます。

 相馬市に松川浦という潟湖(http://www.city.soma.fukushima.jp/kanko/matukawaura_naritati.html)にある遊歩道の整備を行った。

 地元のNPO、京都から来た大学生グループ20名、我々、ポニー牧場関係者11名、その他の有志を含めて約40名が参加した。

 Dsc_0302 

 今回は単に遊歩道の横たわる木を撤去して人が通れるようにするだけなのだが、下記のような箇所があって行く手を阻む。ここは重機でもいれないと難しいので、やむおえず、迂回路を作った。Dsc_0309 

 チェーンソーを使って切った後、人の手でどかす。
 
  

Dsc_0308
 1時間ぐらいかかって、ようやく迂回路が完成する。
Dsc_0311
 津波の威力は凄く、松の木が根こそぎ倒れている。このような箇所は至る所にある。

Dsc_0318 

 遠くの松林の向こうが太平洋。
Dsc_0319

 参加者は汗だくになりながら、午後4時まで作業を続けたが完全に歩道を開通させるまでには行かなかった。ただ、見ず知らずの者達でも力を合わせればここまで出来るという満足感はあった。この松川浦の遊歩道が完全にもとの状態に戻るまでには、多くの人達と日数が掛るだろう。でも、地元の方々はきっとやってくれると信じている。その日が来たら、再度、この地を訪ねようと思う。

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