« 2012‐春の風景(南足柄市怒田) | トップページ | ここまでして柔道を必修化する必要はあるのか? »

2012年3月29日 (木)

「走ることについて語るときに僕の語ること」(村上春樹著)を読んで思うこと。

 恥ずかしい話だが、昨年の10月中旬、甲州フルーツマラソンで惨敗してから、半年以上ほとんど走っていない。アキレス腱のリハビリも昨年11月末には終わり、一応、問題はなくなった。また仕事の都合もあった。しかし「走る」気分になれなかったのが大きな理由だ。倦怠感とでも言うのだろうか、走ることだけではなく、日常生活も張りがなくなっていた。

 実はこの本「走ることについて語るときに僕の語ること」(村上春樹)も昨年12月にブックオフで偶然見つけて、走るモチベーションを上げるために読もうと思っていたのだが、それも3か月遅れの今、読み終えたばかりだ。

 私は村上春樹氏の小説を読んだことがない。有名な「ノルウェイの森」や近年、ベストセラーになった「1Q84」もそのあらすじさえ知らない。ただ、毎年のようにノーベル文学賞を受賞するのではないかと話題になるので、その名前を知っているだけだ。そして、ランニング雑誌やネットなどで、村上氏がフル・マラソンやトライアスロンなどにも数多く完走していることをつい最近知ったのだった。

 内容は村上氏が小説家になったきっかけや、それに伴い走りはじめたこと、2005年NYCマラソンへ挑戦するため過程など、彼自身が「走る」という行為に対してどのように考えているかが率直に書かれている。

 その中で「走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その『ほんの少しの理由』をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。」という一節に目が留まった。グサッと胸に突き刺さった。

 ただ、そんな村上氏でさえ、サロマ湖100㎞を完走した後に、「ランナーズ・ブルー」なるものに遭遇する。「走りたい」という明確な意欲が薄れてきたというのだ。レベルの違いはあるにせよ、まるで今、自分自身に起こっていることのようではないか。誰にでも起こることなのか。少し安堵する。でも、解決策は自分自身で見つけるしかないのだ。

 そして私は次の一節に少しだけ解答に近いものを見つけられた。「苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ」

 何かとても哲学的で、あまりにも高尚で自分には似合わないけれど、ちょっとだけ前向きに、そして、明日から再び走りだそうという気になれた。再度、フルマラソン完走を目指して頑張ってみよう。

« 2012‐春の風景(南足柄市怒田) | トップページ | ここまでして柔道を必修化する必要はあるのか? »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/219908/54340007

この記事へのトラックバック一覧です: 「走ることについて語るときに僕の語ること」(村上春樹著)を読んで思うこと。:

« 2012‐春の風景(南足柄市怒田) | トップページ | ここまでして柔道を必修化する必要はあるのか? »

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ